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2011/04/04

いわき市へ

1104010111040102  1~2日と福島いわきに行ってきた。
 
僕がイモラⅡに乗ってたころカプリに乗ってた方がいま田村市にいて、震災後連絡をとったら「タンクローリーが放射能を怖がって入ってこない、ガソリンがない!」という悲鳴に近い話があったので、ガソリン20Lをカリフォルニアに積んで行ったのだ。ちなみに黒いトランクの中には僕が帰ってくるための10Lのガソリンが入っている。
 
そしてついでにボランティアもしてきた。
「なぬっ?ボランティアをついでにだと!?」
と言われそうだが、ことさらに「ついでに」と書いたのは、いわき市が公式には市外ボランティアを募ってないことを知りつつ行ったからだ。
 
ただ、大阪からいわき入りした方から人手が足りてるわけじゃないと情報を得ていたので、お手伝いさせてもらえるかも?と飛び込むこんでみることにしたのだ。 もちろんニーズが無ければすんなりと引き下がることも必要だ。
 
夜はどこぞでカリフォルニアの陰に隠れて野宿するかと(シュラフ忘れ事件以来寒さには強気なのです、笑)思ってたけど、件のモトグッチ仲間が「ウチに泊まればいい」と言ってくれたので厄介になった。あぶくま洞の近く、小山に囲まれたのどかな農村。しゃがむとそうっと寄ってくるシャイな柴犬がいる庭から見る風景は実は原発30km圏のちょっと外だ。大災害が起こったなんて信じられないような穏やかさだった。
 
ただひとつ忘れてた。宿主は相当な大酒飲みだったことを。ゴーっと地鳴りのあとにくる余震が繰り返すなか酒を飲み続け、寝たのは2:30・・・・。
 
 
1104010311040104 いわき社会福祉センターにあるボランテイアセンター(以下ボラセン)で登録・保険手続きなど済ませて、いわき競輪場でお手伝いをさせてもらった。全国各地から、送られてきた支援物資の集積所だ。
 
それぞれ仕分けして、競輪場のバンクと観客席の下にある巨大な駐車場に分類している。食品、水分、紙類、ベビー用品、毛布などなど、書ききれないくらい多岐にわたる。僕は食品に入った。各避難所や施設ごとにリストを持ってくるので、それに応じて適したものを渡す。
 
ただ希望通りのものが必ずしもないので現場のひらめきと工夫がいる。
それはないけど、これならどう?とか。
 
援助物資ってのもなかなか難しいもので、やたらとあるものと足りないものとが出てくる。全て善意から来てるものだから商品名を具体的に書かないけど、保存食として優れてるかもしれないけど、毎日毎食食べられますか?というものもある。支援のないまま備蓄で命をつなぐにはなんでも食べるだろうけど、被災地以外から送ってあげるのなら在庫備蓄品じゃないものもあってもいいでしょう?
 
また銘菓・高級食材・珍味の類はあまり持っていかれない・・・・
 
個人からの支援物資は混載が多いので、どこかに使えるものが埋もれていないか捜索隊として出た。そこで見たのは大量に積まれたあまりきれいでない布団・衣類などだ。阪神淡路などの経験からか、早期から古いものを送らないようアピールもあったのに、相変わらず。
 
まだ雪の降る東北は寒いだろうから
せめて家に余ってるあれを送ってあげよう
 
これはわかる。しかし被災者はギャンブルに負けて無一文になった人ではない。前日まで普通に生活してたのに落ち度もないのに自然災害に遭われたのだ。被災直後に命をつなぐその場しのぎでなければ、その後はなるべくきれいなものを使わせてあげたい・・・・。管理する側も衛生面に配慮しなきゃならないので易々と使わせられないよね。
(これは被災3週間後のいわきでの感想であって別の被災地では事情が異なるかもしれない。市の機能が丸ごとやられた三陸各市では汚れた毛布でも貴重だったかもしれない。ニーズは時と場所によってどんどん変化する。)
 
 
1104010511040106 2日間のお手伝い、やっと仕事の流れがつかめたところで帰るのが申し訳なかった。現地ボランティアの皆さん明るく元気だったよ!「いまなら日本中の水があるぞ!味比べすっか?」とふざけあう。こういう明るさがないとこんなこと長く続けられない。
 
競輪場を出て、6号を北上。四倉というとこへ向かった。 実はボラセンの担当の方が「移動手段があるのだから被害甚大だった四倉のほうも見に行ってみてください。いわき中心部だけみるとあまり壊れたりしてないから・・・・いわきの人でも知らない方がいるので」と地図や資料をくれたのだ。
 
僕は「見学」なんかしていいものかどうか戸惑ったが、彼女は「ぜひ現実を認識してください」と。
 
6号を北上すると右から松林など見えはじめ、海岸線が近づいてくる気配があった。6号は営業こそしてないけど大型店舗も並び、地元の青梅街道となんらかわりはない。すでに原発35kmのところ。「じゃここらへんで海側に・・・」と右折してみた・・・・・・・ら、そこにはいきなり被災現場が広がっていた。表の国道だけはかろうじて掃除が済んでいたのだろう。
 
砂がかぶった道、塀が倒れ、家は崩れ、散乱。揺れで崩れたというより足払いを食った壊れ方をしてる家もあった。オートバイで入り込んだよそ者が、まじまじと見てなんかいられなかった。2~300mで海岸線に突き当たり、すぐ次の角を曲がってすぐに6号線に逃げ戻ってしまった。
 
僕はやたら写真を撮って絵日記ブログにしちゃうのはみなさんご存知の通り。でもいままで被災現場や被災者の写真を撮ることは慎んできた。それは報道の仕事。でも今回は2枚だけ、こそこそと撮ってきた。こそこそなのでご覧の通り狙ったアングルではない。
ボラセン担当者が「ぜひ見て」と言ったのは福島浜通りの津波被害があまり認知されていないという思いがあるからじゃないかと思う。ニュースでも宮城や岩手の被災現場が報道に乗るが、福島はというと原発の話だけに終始してしまう。そして放射能を必要以上に恐れて人が入ってこない。ダブルパンチだよ。そういうわけで撮ってきた2枚をみなさんにお見せします。
 
泊まった田村町では防災無線で「ただいまの放射能濃度」をしじゅう伝えてた。そこも35km圏だが、もちろん放射能は微量だ。原子炉から直接の放射線が届かなければ、要は風向きなどで線源である塵などがどっちに飛ぶか予測すればそこそこの距離にいたってそう怖いもんじゃない。それに重くてヤバイものは原発の近くに落ちる。今回は初日は南風、2日目は強い東風に守られた。
 
ただ風向きは変わるのでいままでにあちらこちらで放射能は観測されてしまった。そのおかげで出荷前だった肉牛の処置に困ってる方もいるし、農家は種まきを待つように指示されてるそうだ。ほうれん草の出荷停止騒ぎはご存知の通り。ともかく原発を押さえ込まないと生活も復興もあとあとの絵も描けないのだ。県外ボランテイアを募ってないのは放射能の心配もあるからだろう。 ほかの被災地は厳しいながらも、少しづつでも復興に向かい始めてる。福島浜通りはまだまだこれからという印象だ。
 
最後に・・・
初日のボラセンで、私はこれができる、私はこれがしたい、と主張するボランテイアの対応に苦労されたのかな?と思わせる慎重な会話があった。僕に時間をかけて丁寧に「いまは物資仕分け等の仕事しかない」ということをすまなそうにおっしゃったのだ。
 
たぶん僕がライダーだったからだ。(僕はなになにができますなんて一言も言ってないのに)
ライダーなら機動力を活かした活動をしたいと思うのは自然だろう。だけどそのニーズがなければ、やらせていただける仕事をすればいいだけのこと。

お手伝いさせてもらうのにゴネるんじゃないよ
その応対で地元ボランティアにも負担かけちゃうしね。
 
ところで日曜になって、東京に帰った僕に電話が入って「個人宅への配達のニーズが」と連絡をくださった。でも僕は東京。気にかけてくださって切なかったよ。 
ちなみに個人ニーズの吸い上げが始まって、いよいよそういう仕事もふえそうだとおっしゃってた。ライダー諸氏、出番があるかもしれませんぞ!
 
ただニーズがなかったら競輪場で段ボールを運んでね(笑)元気で明るい地元ボランティアのみなさんがいます。

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