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2006/12/14

続・ il diavolo giallo

先日イチョウの話をしたけど、路上の落ち葉を掃いている方をだいぶ見かける。あの厄介なイチョウ落ち葉を集める方もいてありがたい。井の頭池でも毎朝、吹き寄せられた落ち葉をすくい取ってゴミ袋に集めている。走っているといろんな落ち葉の残骸が粉になり、木材所のような香りをたてている。

クルマに細かく轢きつぶされ、アスファルトにすりこまれていく落ち葉を見ながら走る。

落ち葉の行く末ってのが気になる。

本来は土の上に落ちて腐っていくのが宿命だったんじゃないか?

G001  

 
 
 
 
吉村昭の羆嵐(くまあらし)という凄惨な小説がある。

大正4年、北海道は留萌の少し北の開拓村を襲った羆(ひぐま)への畏れが描かれている。倉本聡さんは、富良野の原野に小屋住まいしたその初夜、手違いで電気がこず、ランプでの夜明かしの最中にこの羆嵐のことを想い出してしまい眠れなくなったそうだ。

かく言う僕も、米沢の笠松鉱泉に向かう山中で「熊注意!」の看板を見た夜、宿の2階で、階下に寝る宿のご一家をクマが襲ったら、自分は助けに行けるだろうか?クマは2階まで来るだろうか?と妙に考え込んでしまった(笑)。まあ内地のクマと羆とはかなり違うらしいけど。おまけに宿の大女将は「クマは食いモンがある里の方に出るからココは心配ない」と笑う。

さて、かなり脱線した。
その羆嵐の中に、入植者は家を建て、石を掘り起こし畑を耕すばかりでなく、集落から家族から、死者が出てその土地に葬られて初めて、土との融合・同化が深められる、というようなことが書かれている。
初めて読んだ時、なるほどと思った。大地から生命の元を得て、人は暮らしていく。そして最期は自らもバクテリアに分解されて、養分として植物に吸われ、自然の循環に加わっていく。そうすることで初めて土地に根ざしたと言える。チベットの鳥葬なんてさらに積極的回帰といえるかな。

G002  

 
 
 
 
こう考えていくと土葬はいいけど、火葬となるとどこか罪深い気がする。
エネルギーは不変だから、必ずなにかに姿を変えて自然の営みに関わっているわけだけど、ただ燃えて灰になっちゃうってことは、生物としての他者との関わりは絶ってしまってることになる。自分だけは摂るけど与えないなんて随分だね!やらずぼったくりとはまさにこのこと。

落ち葉だってそう。元いた樹の近くに落ちて、何かしら形を変えて戻っていく。東京のアスファルトで固められた地面ではそれも叶わない。過剰繁殖した人間が地面をいじっちゃったからね。

G003  

 
 
 
 
だからなんだってんじゃないけどさ。
独り走ってるとこんなどうでもいいことが心に去来しちゃうんですよ!(笑)

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